やませが上がる森の、原木椎茸。

高屋敷幸雄

ビニールハウスに入ると、その広さに息をのむ。一般的な体育館の面積を超える3,400㎡の広さに、3万本の椎茸栽培のためのホダ木と呼ばれる原木がX字に組まれ整然と並んでいる。ビニールハウスの上には、ゆらゆらとした木漏れ日をつくるネットが張られ、森の環境を再現している。

北三陸は海から隆起した海岸段丘のため、海岸に沿った道から内陸に入ると、すぐ坂道になり山中へ入っていく。車で10分ほど山側に走ったところに、そのビニールハウスはある。

洋野町は椎茸の産地となって50年ほどになるが、国内では比較的新しい産地である。かつて、この山は楢(なら)の木の産地で木炭を生産していた。その需要が少なくなり、楢の木でなにかできないか、と始まったのが椎茸の原木栽培だった。椎茸の産地で有名な産地、大分でも楢の木を利用しており、見よう見まねで始まった。しかし、冬が寒すぎる洋野町では、椎茸栽培は無理では、という声が上がり始めた。そこで、大分へはもちろん、寒冷地対策の勉強に北海道へも生産者たちは足を運んだ。なんとか、椎茸を栽培できる環境をつくり、経験を重ね、手間ひまをかけて良質の椎茸をつくることができるようになった。よくないと思われていた、北三陸独特の夏に海から吹き上がる冷たく湿った風、やませは、実は良質の椎茸をつくるには、いい自然環境のひとつになっていたことがわかった。高い湿度と刺激は、椎茸づくりには欠かせない条件だ。

原木栽培には、月日を要する。原木となる楢の木が七割程度紅葉したとき、森から切り出す。春まで枯らし、そこに椎茸菌の入った駒をハンマーで打ち込む。それから2年ほど、椎茸菌が原木全体に回るまで森の中に置く。ホダ場と呼ばれるこの場所は、ビニールハウスからちょっと上がったところにあり、背の高い赤松が、原木に菌が回っていくのを見守っているようだ。ここでは、椎茸菌を打ち込まれた、ホダと呼ばれる原木が9万本も待機している。2回目の春に、ビニールハウスに移すと、ようやく春の椎茸が生えてくる。そこから、春と秋に2回、3年間、椎茸を収穫できるようになる。1年目、2年目、3年目と1万本ずつ、原木をずらしていく。3年を過ぎた原木は疲れてしまい、椎茸も生えなくなる。山に返し、自然にもどす。

椎茸づくりには、菌床栽培という方法もある。おがくずなどでつくった人口の培地で栽培する。月日を要する原木栽培とは異なり、短期間で椎茸を収穫でき、生椎茸として年間を通じて流通できるようになった。しかし、椎茸が持つ本来の風味や香り、歯ごたえを十二分に楽しめるのは、原木栽培による椎茸だ。しかも完全に無農薬である。

椎茸を乾燥させるのは、保存が主な目的でない。乾燥させると格段に旨味、そして栄養素が増すからだ。ビタミンDの含有量は、生椎茸の約10倍になると言われている。さらに、水で戻した際にも旨味が増すといわれ、歯ごたえもよく、旨味や香りが溶け出した戻し汁も料理に重宝する。このビニールハウスで収穫した椎茸は、24時間乾燥機で乾燥させた乾椎茸となる。原木栽培による椎茸は、身がしっかりしており、乾燥させてもその形を崩さない。早く収穫し、カサの開いていない肉厚で食感が楽しめる冬菇(どんこ)、カサが7分以上に開き料理用に好まれるのが香信(こうしん)、その中間が香菇(こうこ)だ。

この洋野町一の広さのビニールハウスで椎茸栽培を行う高屋敷幸雄は、この洋野町の椎茸栽培に初めから関わってきた。今は年間、2トンの乾椎茸を出荷している。中国産の椎茸に押されたり、洋野町で生産されたのに大分産のラベルと貼られたりと苦難の連続だったが、町の気候にあった栽培方法の確立のための町内の生産者たちと研修を重ね、洋野町の乾椎茸としてその存在感を高めてきた。彼のつくる椎茸は、全国での品評会で最高の賞を総なめにした。しかし、彼がもっとも誇りにしているのは、県の品評会で洋野町の生産者が、団体として10連覇したことだ。

高屋敷幸雄 23才から椎茸栽培を始めた、洋野町の椎茸栽培のすべてを知る第一人者。米も生産し、農業が比較的ひまな夏は、海に潜り、うにやアワビを獲る兼業漁師となる。洋野町の山も海も知り尽くす。

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